木揺葉子のつれづれ日記

思ったことを思ったままに。

アメリカンな伯母と卒業式 ~Thank you, aunty.

今週のお題「卒業」

 

大学の卒業式のことを思い出す。

 

十数年前のちょうど今日、父が亡くなった。突然死だった。

私はそのとき、大学卒業を前に友だちと海外旅行に出掛けていて、父の死に目には会えなかった。

 

帰国し、葬儀やらなんやらで息つく間もなく一週間あまりが過ぎた。

 

アメリカの伯母から連絡があったのは、そんなときだった。

 

伯母は、父の一番上の姉で、アメリカ人と結婚して以来50年近く日本を離れている人だった。私にとっては祖母のような存在だった。実は、卒論を書き終えてから友だちと旅行に行く直前までの2週間ほど、私はカリフォルニアに住む伯母の家に滞在していた。こんなことになるとは全く思わずに楽しく過ごしていたのが、既に懐かしい気持ちだった。

 

伯母は言った。

「あなたたちのそばにいてあげたいの。私がそちらに行ったらご迷惑かしら?」

 

そう言われて、仮に迷惑でも「はい迷惑です」とはまず言えまいなぁ、さすがアメリカ歴50年、と思いつつ、「迷惑なんてないよ、来てほしいよ」と答えた。

 

「じゃあすぐに行くわ。あなたの卒業式に出なければ!!」

 

あぁそうだった。卒業式だ。

父さんが生きていれば参列してくれるはずだったのに。そうか、オバチャン来てくれるのか、そうか……

 

伯母は本当にすぐにやってきた。

 

伯母が我が家に到着した翌日が、卒業式だった。伯母は母と一緒に参列してくれた。

私はサーモンピンクの母の着物に、レンタルの紺の袴を着けて、式に臨んだ。4年間学んだ学舎と、苦楽を共にした仲間との別れ。でもなんだか、心はついていかなかった。友だちとの会話で気を紛らわしながらも、笑っているのかいないのか、自分自身の心の動きがわからなかった。

 

そんなとき、研究室前の廊下から、おかしな話し声が聞こえてきた。

 

「あら~、あなた!とってもビューティフルね!!コングラッチュレイション!!」

「あなたも、とってもワンダフルよ!」

 

覗くと、伯母だった。

式の後、私が所属した研究室がどんなところか見たいと訪ねてきたところで、廊下を歩いていた私の同級生たち(当然初対面)に向かって話しかけていたのである。

 

同級生たちは、まっ黄色のジャンパーを羽織った白髪のお婆さんが、突然ルー大柴のような口調で話しかけてくるのだから、ビックリして固まっていた。

私は慌てて出ていって、「私のオバサンなの(^^;」と解説しなければならなかった。

伯母は終始ニコニコして、そこからしばし同級生たちと歓談していた。

 

帰宅して、この話で我が家は爆笑した。

私が伯母の真似をし、「みんな困ってたよ」と言うと、伯母自身も、母も、同居している祖母(母の母)も、手を叩いて笑った。

久々の、明るい空気だった。

 

伯母がそうやって同級生たちと絡んでくれたのは、後から考えると本当によかった。同級生たちは、私の家族に起こったことを知っていた。だから恐らく、私や母にどう声をかけたら良いか戸惑ったと思う。そこへあのパンチ力のあるアメリカンな伯母がやってきたのだから、変な遠慮も配慮も吹っ飛んだはずだ。おかげで、その後の祝賀会では楽しく過ごせた。

 

それから結果的に3か月、伯母は我が家に滞在した。2つしか年齢の違わない私の祖母と連れだって近所の鍼灸に行ったり、地域の集まりに参加したり。特に家事をやってくれた、とかではなかったと思うが、とにかく我が家を明るくしてくれた。

 

伯母は、良くも悪くも空気が読めない人だった。

それゆえに、私たちが疲れることもあったし、私たちを心配する親戚(伯母の妹たち)とぶつかることもあった。

空気が読めないのはアメリカ暮らしが長いせいかなと思っていたが、時々連絡してくれる伯母の息子たち(私の従兄、アメリカ人)は気遣いが出来ることに気付き、これは個人の特性の問題なんだなとわかった。

 

ただ、そんな伯母がいてくれたからこそ、我が家の3か月は湿っぽくなりすぎずに済んだ。

時間が経った今振り返ると、伯母への感謝はじわじわ増してくる。

 

伯母はそれから5年ほど経って、亡くなった。

結局あの3か月が、伯母と過ごす最後の時間になった。

 

卒業式の季節が来る度に、伯母のルー大柴トークを思い出す。

そういえば、あの時私はちゃんと伯母に感謝を伝えただろうか…思い出せない。

伯母に、会いたくなった。

 

今年卒業するみなさん、心からおめでとうございます。