木揺葉子のつれづれ日記

思ったことを思ったままに。

植松聖をつくる環境はあちこちにある~相模原障害者施設殺傷事件に思う~

おはようございます、木揺 葉子です。

気持ちのよい爽やかな朝ですね、みなさんの地域はどうですか?

 

そんな朝に重い話題です(スミマセン)。

 

津久井やまゆり園の事件が結審して10日余りが過ぎました。私は雨宮処凛さんの記事で、この裁判について読み続けてきました。

 

それでこの10日余り、ひとつ思うことがあります。

 

第二の植松聖をつくる環境は、私たちの身近なところにあるのではないだろうか…。

 

植松は、津久井やまゆり園で働き始めた頃、「この仕事は天職」「障害者はかわいい」と友人らに話していたそうです。それがいつからか、「障害者はかわいそう」に変化し、そのうちに「障害者はいらない」になったらしい。

 

この間に何があったのでしょうか。彼は元恋人らに、施設の実態を話しているそうです。ドロドロにした食べ物を流し込むだけの食事、車椅子に縛り付けられる利用者、命令口調の職員、職員から利用者への暴力。。。職場で先輩職員に疑問を投げ掛けるも、「2、3年すればお前もわかるよ」と言われ、植松自身も利用者を小突くようになっていったと…。

 

植松を擁護する気は全くありません。
私は彼がやったことを心底憎んでいるし、恐ろしいと思うし、許しがたいと思っています。


ただ、植松が職場で感じた戸惑いが、私にはわかる気がします。そこで価値観や倫理観をねじ曲げられる感覚も、わかる気がするのです。

 

明らかにおかしいこと・理不尽なことが「当たり前」になっている空間で、「なんかおかしい」という感覚を持ち続ける孤独感は半端ない。
周りの人間は揺さぶりをかけてきます。「おかしい」と投げ掛ける人間がいると、その空間の安定が妨げられるから。だから、疑問を抱くのは大人げないとか、そういうものだから仕方ないとか、上が言うんだから従うしかないとか、揺さぶってくるのです。「そのうちお前もわかるよ」は常套句。みんなそうやってやり過ごしてるんだ、お前もそのうち染まってくるよ…

 

冗談じゃないと跳ね返せる人間はまだ良いです。それでも時に、自分を見失いそうになる。自分の培ってきた「正しい行い」の軸が、折れそうになる。

跳ね返せずに戸惑う人は、きっと自分なりに納得する方法を探すでしょう。そうしなければ、いつまでも苦しいから。


施設職員が利用者に暴力を振るうなんて本当だったら論外です。だけどそれが「仕方ないこと」になってしまっていたのだろうと推測します。
背景はきちんと検証されていないけれど、もしかしたら人手不足などの問題があって、その場その場を回していくために、「仕方ない」と思うしかなかったのかもしれない。
忙殺される中で、ひとりひとりが持っていたはずの熱意や優しさや倫理観が、捨てられていったのかもしれない。
そうして施設全体が、おかしいことを「当たり前」としてやり過ごすことでで成り立つ空間になり、誰も植松の抱いた疑問や戸惑いに寄り添ったり、答えたりすることができず、彼を孤独な自問自答の世界に追い詰めてしまったのではないでしょうか。そして、他の要因も相まって、彼は「障害者はいらない」で納得し、行動を起こしてしまった。私にはそう思えてなりません。

 

だとしたら、第二の植松を生むきっかけは、あちこちに転がっているのではないかと思うのです。

 

三権分立を平気で歪める議会対応や、都合の悪いデータを伏せる県民対応や、目的不在の事業推進が「当たり前」になっている木揺の職場もそうだけれど、もっと言ったら、日本の社会全体が「おかしな当たり前」に包まれているのではないかと思えてならないのです。

 

「仕方ない」で済ませていいことと、よくないことがある。声をあげることで変えられることもある。そう思いたい。
だけど現実は違うのかもしれない。「おかしな当たり前」は、国政から地方自治から学校から家庭まで、あまりにも根深いものに感じる今日この頃です。